GPSSグループ × BLUE BULLETS特別対談企画 #2 「一人ひとりが幸せに生きるとは?」



「一人ひとりが幸せに生きるとは?」


2021/10/26

司会: 山口 幹生(Blue Bullets 15期 / GM / 株式会社ポケットマルシェ取締役)
(文章:宇佐見)



―ラクロス部からGPSSまで

山口: 今日はよろしくお願いします!

今回は、『一人ひとりが幸せに生きるとは?』というテーマで、東京大学の運動会ラクロス部男子を支援いただいているGPSSホールディングスの目﨑雅昭代表と、東大ラクロス部OBで予防医学者の石川善樹君に対談をしていただきます。司会は東大ラクロス部でGMの山口幹生が担当します。

目﨑: 「幸せ」ってすべての根本ですよね。政治でも社会の在り方でも、最終的には人間の幸福というのがゴールとしてあって、それが達成されないと意味がない。そういう意味で、これ以上に大事なテーマはないのかもしれませんね。

山口: ありがとうございます。僕自身、石川君とは同期なのですが、10代の頃から「幸せに生きるにはどうしたらいいんだろう?」いう話をずっとしてきました。その流れもあってか、石川君はいつの間にか有名になっていて。今、「幸せ=Well-being」というところが日本で一般化してきたことについても石川君の多大な貢献があると思っています。目﨑さんのGPSSグループが掲げる『地球は燃やさない。魂、燃やせ。』にも私自身非常に共感していまして、今日はその延長で考えられている「幸せ」について、お二人の対談という形で聞かせていただけたらと思っています。よろしくお願いいたします!

1. 幸せって、一体何? ———『魂、燃やせ』に込められた意味

山口: 冒頭ですが、まずは今日の大きなテーマである「幸せ」について、お二人にとってこの時代に「幸せに生きる」とはどういうことなのかをお話いただけたらと思います。

石川: 幸せって・・・なんでしょう!?(笑)もちろん、幸せの形は一人ひとり違うものですよね。

目﨑: なるほど、幸せの定義って100人いたら100通りあるというのはその通りですよね。だから僕は、幸せを定義するときに、「幸せ」という言葉自体が最初に存在するという前提で、その言葉の歴史的背景とか本来の意味を探していくことはナンセンスだなと思っています。「幸せ」という言葉自体はあくまでコミュニケーションを取るための「記号」なので、その記号自体には本来の意味など存在しないのです。

僕は逆に、どういう状態を僕らが共通認識として幸せと呼んでいるのかを考えたいなと思っていて。そこから僕なりの定義をすると、「自分の意識が最高の体験をしている状態」を、僕らは「幸福」と呼んでいるのだと思います。それでは、どうしたら「意識が最高の体験」をできるかというと、例えば「身体が健康」っていうのは一つの条件ですよね。他にも、人と人との関係性とか、社会との関係とか、いろんなもののフィードバックがあると思うし、何よりも「自分が何のために存在しているのか」という問いについての自分なりの答えを認識していることが重要で、それらが全方位的に「最高の状態」にあるのが僕たちの認識している「幸せ」なのかなと思っています。

石川: 目﨑さんが幸せを感じる象徴的な瞬間や体験はありますか?

目﨑: 幸せの定義の議論でもよく言われる話ですが、「美味しいものを食べた」とか「楽しいものを見た」みたいな瞬間的な喜怒哀楽の高まりと、自分自身の人生を振り返ったときの過去の体験全体に感じる満足感みたいなものとではかなり違いますよね。



(石川)ハーバード大学学長と

(目﨑)米国ヨセミテ国立公園にてキャンプ中

石川: 人生の一番最後に、どう振り返るかということですね。

目﨑: そうです。そして人生の一番最後がいつかっていうと、いつであっても今なのです。だからこそ今、過去を振り返った時に「意識が最高の体験をしている状態」であったことが大事だと思います。

先ほど、幸せというのは100人いたら100通り、という話をしましたが、実際には「人間」って生き物としてはすごく似ているわけじゃないですか。だから、人間が高揚感を感じるメカニズムもある程度は研究されてきていますよね。そういった中で、僕は「意味づけ」が一番重要だと思っています。これこそが、「人生において自分が何のために存在しているのか」ということを自分自身が認識することです。

意味付けの方法はいろいろあります。例えば昔は、こうした人間の問いに対しては「宗教」が社会の構造や人間の生きる道を示してくれる役割を果たしていたのだと思います。でも今の時代には、答えを外側から与えられるのではなくて、自分自身で生み出していく必要があります。生きるための理由を自分なりに決めて、それにコミットして努力していくプロセスが、自分の存在意義というものに繋がってくるのだと思います。

『魂、燃やせ』という当社のミッションも、全然スピリチュアルな話ではなく、僕の中で「魂」を「自分自身を定義する最小単位」と定義してます。

「あなたは誰ですか?」と聞かれたときに、名前も国籍も変わりうるし、あとからついてきたものであって、決して本質じゃないですよね。身体をつくっている細胞も、日々の新陳代謝で全部入れ替わっています。だから、「自分自身を定義する最小単位」を突き詰めていくと、意識ぐらいしか残らないのかもしれない。でも、何かは残ると思っています。『魂、燃やせ』というのは、その意識がどういう方向で何がしたいのか、ということに対してしっかりと向き合って、それに全力で取り組むということ。そこで完全燃焼することこそが、「意識が最高の状態」であって、幸せの象徴的瞬間だと思っています。



(石川)15期の同期とアメリカにて



(目﨑)ガラパゴス諸島にてゾウガメたちと

2. スポーツと『魂、燃やせ』———スポーツで体感する「最高の状態」とは 山口: 目﨑さんのお話、ラクロス部で昔よく言われていた「意識が変われば行動が変わり、行動が変われば習慣が変わり、習慣が変われば人生が変わる」という話にすごく通じるものを感じました。石川君ともよくそんな話をしていたなと思って。

石川: そうですね。部活とかスポーツって、『魂、燃やせ』を実行に移しやすい環境なんだと思います。一番の理由は、利害関係のあんまりない仲間がいるということ。プロ集団ではないので、勝利のためだけに集まっているのではないし、ある時点で切り取ってみるとモチベーションの状態もいろんな人がいます。それでも、例えばBチーム(2軍)のメンバーが腐っているとAチーム(1軍)も弱いということが往々にしてあって。人って弱いから、1人だとなかなか燃えることって難しかったりするんだけど、仲間がいるからやれるっていうところはありますね。

あと、「最初から最後まで自分たちでやれる」というのもすごく大きな要素だと思います。社会人になると、常に部分のことを担当するようになるんですが、よほど自己洗脳が上手くないと、部分のことをしていてそれが全体に繋がっているって信じ込むのは難しいですよね。社会ってすごく複雑なので、どうしても部分のことを担当せざるを得ないんだけど、そうするとイマイチ魂を燃やしきれないということが結構起こっているなというのは世の中を観察していて思うところです。そういう意味で、スポーツっていうのは自分たちで始めて、練習して、水を運んだりボールを運んだりして、最終的に結果につながるところまでできる。結果までの一連のプロセスをすべて自分たちで担うというところが、魂を燃やしやすい環境だなと思います。

目﨑: スポーツは魂を燃やすことを通じて幸福感を感じるっていう意味ではわかりやすい手段ですね。その前提は先ほどお話した「意識が最高の状態にある」ということなですが、大事なのはこれが主観だけで完結するのでは「最高の状態」とは言えないと思うのです。

主観と客観といわれるものの間にあるものを、どれだけ主観として捉えられるか。平たく言えば、自分以外の人について、どれだけそれをあたかも自分自身の主観のように体験できるか。これが「意識が最高の状態」を体験できる要素だと思っています。例えば、愛する人がいるとなったら、恋人でも子どもでも、その人の命や人生が完全の自分の人生の一部、身体の一部になって、更にはその人の命のほうが自分の命よりも大切、ってなることがあるじゃないですか。この、自分の肉体を超越して、主観の中で統合している感じがあると、すごく高い高揚感に繋がると思うんです。

極端な話、全人類でこの感覚を共有できたら、すごいことだと思いませんか?スポーツっていうのは、ラクロスもそうだと思いますが、それを身近なもので、時間限定で体験できる活動だと思っています。

石川: 今の目﨑さんのお話でふと思い出した光景があります。僕、6年間ラクロスをやったんですけど、ちょうど大学4年生の今ぐらいの時期でした。練習中にディフェンスをしていたんですけど、後にも先にも1回きり、ディフェンス陣が本当に一体となった感覚というか、自分が声を出してるのか出してなかったのかもよくわからないくらい、本当に以心伝心という感覚でした。それがラクロスをやっていて一番幸せだった経験ですね。本当に6年間で1回だけだったんですが、今でもずっとあの一体感って何だったんだろうって追いかけている気がしています。



(目﨑)アフリカのケニアにて



(石川)ラクロスプレイ中

目﨑: まさしくその体験ですよね。勝ち負けという基準やチームの目標があってそういった体験が引き出される部分も1つのメカニズムとしてあると思うし、石川さんのように日々の練習の中でもそういった体験ができるということは、スポーツ以外の部分でもそういった可能性ってありますよね。

僕は高校の頃、バンドをやっていました。学園祭の時間が終わってしまって、それでも強行突破でライブを続けていました(笑) 業者の人にやめろ!って言われて、電気を落とされたりしながらも、小さな教室で100人くらいの生徒が総立ちですよ。電気を切られちゃったので最後はドラムに乗せてみんな口でそれぞれの楽器のラインを歌ったりして。そのときの教室の一体感と高揚感を思うと、1万人のライブをやったらどんな感覚になるだろうと思ったりもしていました。

石川: そうですよね。先ほど目﨑さんがおっしゃったように、100人いたら100通りと言いつつも、動物としての人間っていうのは多分みんなそんなに変わらなくて。声を揃えたり、手拍子が揃ったりっていうのは、脳にとってとんでもなく気持ちのいい経験なんですよね。

目﨑: やっぱりそれはシンクロするっていうことだと思います。意識のシンクロです。

3. 意識のシンクロ ———ラクロスとは、アルゼンチンタンゴである。

目﨑: アルゼンチンタンゴってご存知ですか?なんとなく聞いたことはあって、薔薇をくわえてくるくる回ってというイメージがあるかもしれませんが、実はそうじゃない (笑)

僕はサロンタンゴというものをやっていますが、これは人に見せるための踊りではなくて、たまたまそこで出会った人と、たまたまかかった3~4曲の音楽と、その日の自分の気分に載せて、男女でハグをした状態で、即興で踊っていきます。そうすると、自分と相手のシンクロもあるし、音楽と自分のシンクロもある。さらに、踊っている人たちも反時計回りに少しずつ周囲に触れないように動いていくので、場の全員がシンクロしていくのです。すごくいろんなレベルでシンクロが起こっていて、自分の身体の境界線が消滅し、世界と一体化している体験ができるのです。だから、踊るときも手でリードしようと思ってリードするのではなくて、まさに自分が手を動かすように相手の足を動かすのです。もう、頭が2つで身体は1つ、手足が4本のひとつの生き物になる感じ。身体は一体化しているのですが、意識レベルでは二人の個がしっかりと保たれているのです。

これが主体性を担保された状態で全体と融合しているということで、先ほど石川さんのお話された経験とすごく似ていると思います。1人1人のプレイヤーの主体性はありながらも、守る人たちがまるで一体の生き物のように感覚を共有しているのと同じ状態ですね。この主体性を保ちながらも、全体と融合したシンクロ度合いが大きいほど、幸福感が大きくなっていくと思っています。

石川: なるほど。ちなみに目﨑さんはどのくらいアルゼンチンタンゴをやられてるんですか?

目﨑: もう10年ほどになります。元々ずっと格闘技をやっていたんですよ。30代半ばくらいまで、「相手をどうやって返り討ちにしてやろうか」なんてアホなことをずっと考えていました(笑) ある時、旅をしながら、ブラジルではブラジリアン柔術やカポエイラを習い、タイではムエタイを習ったりなんてことをしていたのですが、その延長でたまたまアルゼンチンに行ったときにアルゼンチンタンゴをやってみようとなったのが始まりです。

僕にとってというか、日本人にとっての踊りって、お遊戯とか盆踊りがベースにあって、みんなが強制的にシンクロさせられる構造があまり好きではなくて。だから元々ダンスは嫌いだったんですが、アルゼンチンタンゴに出会ったらもう真逆ですよ。だって全部即興で、そのときの自分の感情や内面に映し出されたものを音楽に乗せて、2人で身体をつかって表現していくのですから。相当高いスキルが必要です。でも、僕がずっとやってきた格闘技の延長線上にあるようにも感じました。格闘技は、つまるところ相手の軸をどうやって壊すかということですが、アルゼンチンタンゴは相手の軸をどうやって守って、自分と相手の軸を交差させていくかというところで、ベクトルは違いますが、使うエネルギーや身体の使い方とその修行という意味ではすごく似ているなと思いました。

それで、見ていても美しいし、これなら俺行けるなと。そこから10年くらい続けていますね。非常に難しいですが、やっとまともに歩けるレベルになったようになった感じがしています。





(目﨑)インドのゴアにて、仲間と格闘技の稽古中



(石川)山口GMとハワイにて

石川: 日本人って、練習と本番で動きが変わらない競技が強いと言われてますよね。スケートとか体操みたいな。アルゼンチンタンゴは、サッカーとかもそうですけど、状況状況で本番と動きが違う難しさがあるということですね。

目﨑: 確かに競技のタンゴっていうのもありますが、アルゼンチンタンゴは元々見せるためにやるものではなかったのですよ。アルゼンチンが90年代に経済危機になる中で、何とか輸出しようとしたものがワインやビーフでしたが、その中の一つがタンゴで、輸出のために競技化されたという背景があります。だから、当初はタンゴのマエストロと呼ばれる人たちは全然参加してなかったんですね。

本来は、自分の内面的なものを第三者に伝えるための「最小単位のアート」だと思います。「最小単位」というのは、絵でも彫刻でも、自分が1人で「アートだ」といったところでそれはアートにならなくて、不特定多数の人から客観的に承認されれば承認されるほど価値が上がるじゃないですか。でも、タンゴの場合は自分と相手がいるので、この2人がいいと思ったらそれで成立するのです。だから、本来、競争というのがほぼ無いものなんですよ。

石川: ラクロスはアルゼンチンタンゴである、と言ってもいいですね(笑)

目﨑: 競争はないんですか?(笑)

石川: ラクロスって、元々は競争とか争いをやめようってところから始まってるんですよ。アメリカの先住民が、湖の周りの6つの部族で争いをやめようということで始めたのが起源です。

(石川)現役とOBの混成チーム、TOKYO TOWER 2005で大会に出場



(目﨑)ボリビアのウユニ塩湖にて

目﨑: そうなんですか。

石川: それで、持っていた石斧の石の部分を外したのが今のラクロスのスティック。ラクロスのボールは地球を意味してるんです。それで地球を大事に運んでるっていう感覚なんですね。だから、ラクロスも本来は勝利よりも調和を目指したスポーツなので、アルゼンチンタンゴにちょっと似てるなと思いました。

目﨑: なるほど。いろんなスポーツにおいて勝ち負けの部分というのは、あくまでも構造を面白くするための手段の1つであって、目的じゃないんですよね。

武道や格闘技も、身体性を磨くことの延長上での精神的な修行というところにもやっぱり本質があると思います。高校の頃に空手部で、もう毎日死にそうなくらい練習がありましたが、そんな風に肉体と精神をめちゃくちゃ追いつめられると、「七人の侍」みたいな感じで、5mくらい離れた敵の殺気も感じられるようになりました。今はタンゴダンサーになっちゃったので全然ダメですけど(笑) 禅の鈴木大拙先生は、これを一種の悟りの境地として例示しています。

武道じゃなくても、川上哲治が「ボールが止まって見えた」みたいな話もそうですが、身体的な能力が訓練される中で高いスキルに到達することで、一般的に考えている僕らの肉体的な範囲を超えたところでの認知ができるようになるっていうのは、全てのスポーツに共通してある要素だと思います。バスケットボールだって、30mくらい先にゴールがあって、あんなところに放物線を描いてボールを入れるなんて、力学的にはとんでもない複雑な計算をしないと入らないじゃないですか。でもそれをやってしまうのが訓練された人のスキルですよね。

つまり、僕らが通常認識している身体の形が自分の境界じゃないんだっていうことを実際に体感するっていうことですよね。それができるのがスポーツであり、アルゼンチンタンゴなのかなと。

石川: 目﨑さんのお話で思い出したんですが、僕は1999年に東大に入ってるんですけど、その年の東大入試の国語の第一問は「身体とは何か」という問いだったんですね。

自分の身体って、みんなコレを自分の身体だと思っているけど、靴を履いたら靴も自分の身体の一部になる、みたいな。身体感覚というものは拡張するけど、さて身体とは何でしょうか、という問題で。勉強ばかりしてきた身体性とは無縁の東大受験生に第一問で身体について問うってのはめちゃくちゃ面白い大学だなって思った記憶が甦りました。

目﨑: 実際に剣道の達人の脳波を調べると、竹刀の先っぽまで自分の身体の一部として認識しているらしいですよね。

石川: やっぱりそうですか。

目﨑: こういう話って、理解するのは難しくないと思うけれど、体感するってなると別の話になると思っています。だから、先ほど石川さんがおっしゃったラクロスの時に一番幸せを感じた一体感というのも、どれだけ人に話しても共有することはできないですよね。自分が体感しないと無理です。だから、自らがそれを体感するための一つの手段がスポーツだとしたら、すごく重要な活動だと思いますね。





(目﨑)米国コロラドにて



(石川)ハーバード大学院にて

4. 幸せとWell-being ———より深く、永続的な満足感の中を生きる秘訣

山口: 例えば、自分と同じ代の学生と比べてちょっといい会社に入るっていうことに幸せを感じたり、それを目指したりする感覚。これって「人と意識がシンクロするとか、一体感というのとは真逆の世界でも幸せを感じる」ということで、そこにすごく違和感を覚えたこともありました。でも世界を見ていると、そういう人たちはたくさんいますし、国と国、地域と地域といったレベルでもそういったことがあると思っています。

この、「他者と比べてちょっといいものが得られたという幸せ」と、今までお話されていた「他者とシンクロする幸せ」というのはどういう関係なんでしょうか?

石川: 僕の人生にすごく影響を与えたエーリッヒ・フロムという人が書いた、「生きるということ」っていう本があります。そこにHaveとBeって話があるんです。Haveというのは人より良いものを持つということで、20世紀はHaveの時代。より強い軍事力を持って、より広い国土を持つっていうHaveが幸せにつながると思っていたけど、もうそうじゃないんだと。これからはBeの時代、まさにWell-being、即ち自分が存在としてただあるということですが、そういう時代に移っていく、みたいなことが書いてあって。それで、そうかHaveじゃなくてBeでいけばいいんだ、ということで若いときにすごい影響を受けましたね。

目﨑: 僕もエーリッヒ・フロムは大好きですよ。「自由からの逃走」が強烈に僕の中に残っています。先ほど山口さんが仰っていた、人と比べるということとシンクロや統合と言ったことは、人類の10万年、20万年の歴史の中の進化のプロセスじゃないかと思っています。人と比べてちょっといいというところで感じられる高揚感は原始的なものではあると思いますが、その感覚をみんな持っているのも事実で、そういう脳の構造やメカニズムがあるっていうことだと思います。でも、それはそれとして、次の段階として人類が進むべき方向を考えたときに、人と比べて得られる満足度って本当の満足度に繋がってるのかというと、違うと思います。

例えばお金。お金っていくらあったらいいですかといった問いに、世界一のお金持ちになったらいいのですか?でも、世界一って世界で1人しかなれないのだから、他の79億人がダメですねって話になっちゃいます。だから結局、人と比べて得られる満足度っていうのは、あくまでも一過性のものですし、他の人と同時に体感できるものでもないですよね。

そこでどうしたらいいのかというと、やっぱり他の人との一体感やシンクロの中で得られる満足感っていうのが、より永続的で、深い満足感なんだと思うんです。今の資本主義をベースにした生活の中で、そうした人と比べることで得られる満足感から完全に抜け出すというのはなかなか難しいと思いますけどね。僕が放浪していたときに周りにいたヒッピーですら、「金なんて本物じゃねぇ!」と口では言いながら、意外とお金に汚かったりしましたから。

山口: なるほどなるほど、興味深いですね。

石川: 目﨑さんのように、資本主義からヒッピー、バンドや格闘技からアルゼンチンタンゴまでいろいろ経験して、やっぱりWell-beingだよねと芯を持って取り組まれている社会人の先輩がいるというのは、学生のみんなにとってとても刺激になる話ですね。そんな目﨑さんが、僕らのラクロス部をサポートしてくださってるのは、改めてすごくありがたい話だなと思いました。

目﨑: 僕はね、自分が体験しないと何も入ってこないんですよ(笑)

だから全部やってみて、やって初めてわかる。みんなそこまでやる必要もないと思うし、もっと優秀な人たちだったら話をきくだけでわかるよということもあると思いますが、そうは言っても身体として体験しなきゃいけないなと。お話してきた高揚感みたいなものを自分で体験した人としてこなかった人っていうのは、人生の深みだったりゴール設定みたいな部分で大きく変わってくるのかなと思います。



(目﨑)インドのアーグラにて



(石川)15期同期と海外出発前

5. 現代の学生のみなさんへ ———魂、燃やせ。

山口: 最後になりますが、今の大学生ってすごく大変だなと僕は思っていて。人の価値観が転換期にある中で、従来の「こうすべき」っていう情報と、「それじゃダメな時代になった」っていう情報が混在する中で、どういう指針のもとに何に時間を使っていくべきなのか、組み立てにくい時代になっていますよね。

ラクロス部のメンバーもそういったところで悩んでいるところがしばしば見て取れます。僕自身は、ラクロスをめいっぱいに頑張ればいいと思っているんですけど(笑)

それでも、表面的にでも「いろんな経験を積まないと社会で活躍できない」みたいなことも言われたりする中で、大学生、特に1年生なんかはなかなか時間の使い方や生活のあり方を決めにくい状況だと思います。就職活動をする大学の3~4年生もまた、何を軸に会社を選んだらいいのかわからないとか、そういったこともあると思います。そんな今の大学生が、どう生きるのが将来の幸せに通じるかということで、抽象的で難しいんですがアドバイスがあればいただけたらなと。

石川: 最近の事情はあまりわからないんですが、「何をすればいいですか?」っていう発想になりがちだと思うんですよ。幸せになるために、とか、成功するために何をすればいいですかっていうのは、世界を「こうしたらこうなる」という因果関係として捉えた上で、無駄なく効率的に成功して幸せになりたいっていう発想だと思います。でも、時代が複雑になればなるほど、「何をしたらいいか」という答えは出せなくなるものであって、むしろ発想を変えて、「問い」そのものを考えなければいかなくなっていくんだと思います。あとは目﨑さん、お願いします!(笑)

目﨑: 僕の世代だと、「こうあるべきだ」というものがすごく強い社会で育ちました。それを信じている人も多いから、ある意味でわかりやすかった反面、そこに行かない人というのは徹底的に排除されるような世界観でした。今はその世界観が完全に崩壊していて、いい大学に入って、いい会社に入ったところで潰れてしまうこともあります。「日本は大丈夫なのか?」「日本の社会で『よい』とされるものに乗っかればそれで問題ないのか?」といった不安というのが前提としてあるかもしれない。

でもこれって、いいことでもあると思っています。なぜかというと、あなただけの人生において、「あなたにとってベストな状態って何ですか?」ということを、とことん考えざるを得ない状況に結果的に追い込まれることができたからです。「昔はよかった」なんて言っている人たちの概念に影響を受けて人生の選択をしていたら途方に暮れるしかありません。

就職やキャリアについて考えてみても、僕はやっぱり、自分が本当に何をしたいか、どう生きたいかっていうものは、「資格」だとか「職業」にぴったり当てはまるものでは決してないと思っています。社会の機能のひとつである職業に、それも将来はなくなってしまうかもしれない仕事に、自分の人生の全てを一致させることは、ナンセンスです。そういう思考ではなく、もっと本質的に、自分がどういう状態だったら魂が燃えるのか。そこにフォーカスしながら、いろんなものを体験して、心からの好き嫌いをどんどん体験していくことによって、だんだんと「これ、俺の魂燃えるじゃん」みたいなところに落ち着いていくんじゃないかなと思います。

今日はアルゼンチンタンゴの話もさせてもらいました。今僕はタンゴに完全にハマっていますが、例えば僕が10代の時にアルゼンチンタンゴに出会っていたとしても、絶対にハマってなかったと思います。つまり、その間のいろいろな経験があって、偶然に偶然が重なった複雑な事情の上でハマるところがあった、ということです。こればかりは人それぞれに違うと思います。普遍的なものはないため、皆さん自身が皆さんなりのものをつくっていくことしかないんですよね。

山口: ありがとうございます。コロナが落ち着いたら、是非1度、ちゃんとお会いしたいですね。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします!