- soul -

『素敵な仲間に囲まれて』

15期主将 倉橋雄作


 僕は数々の遅いシュートを決めてきた。2年生の頃。大げさなかけ声とは裏腹に、びっくりするほど遅いバウンドシュートが僕の武器だった。「しまった、今のは絶対捕れた・・・」と相手のゴーリーを何度も悔しがらせたものだ。圧巻は専修戦。リーグブロック予選の最終試合。これに勝利した側がプレーオフ。雨の農グラ。何ともしびれる舞台が整った。前半、東大は攻めあぐね、3点のリードを許す。そんななか、僕のバウンドシュートが火を噴いた。ボールはゴーリーの股下をコロコロと転がる。ゴールラインを超えるころ、ボールは止まっていたかもしれない。東大待望の初得点。「お前、ほんとありえねーな」と関田さんからお褒めの言葉をいただいた。結局、東大は5対4で専修を下し、プレーオフ進出を果たす。この試合が、「揺らぐな、今に集中」のメンタリティが東大に確立していく大きなきっかけになったのではないかと思う。

 遅いシュートといえば、避けて通れないのが4年生の時の話。そう、Final 4日体戦。エース山口幹生が爆発。DFも踏ん張り、一時8対3とリード。そういえば、この試合の前日、全体MTGでのこと。幹生が、「これまでは周りを鍛えることを一番に考えてきた。明日は俺が点を取る」と宣言していた。有言実行そのままに、6得点を叩き出した彼はすごい。で、日体戦の話。さすが日体、いつまでも黙ってはいない。逆襲開始。東大連続失点。どうにも流れを止められない。大差リードのはずが、ついに残り2分、同点ゴールを許してしまう。8対8。完全に日体ムード。ここで僕は勘違いをしてしまった。「ここで点を取ればヒーローだ。池さんもさぞかし喜んでくれる。」何を思ったか、リストレ辺りから、それまで一度も打ったことのない左ランニングシュートを放ってしまった。あまりの遅さに相手ゴーリーも驚いたに違いない。それ以上に驚いたのは、愛するチームメイトだろう。ボールはゴーリーのクロスに収まり、攻守交代。もはや幹生から叱られることもなかった。東大は再び日体の猛攻に曝されることになる。「ごめん、ごめん、みんなごめん。やばい、やばい、やってもうた。たのむ、たのむ、みんなたのむ。」僕は大いに揺らいでいた。しかし、チームのみんなは違っていた。「揺らぐな、今に集中」が共有されていた。MF、DF、Gが一丸となってピンチを耐え抜き、日体はしびれを切らしてパスミス。サイドラインへとボールは転がっていく。奥村と相手アタックがせり合いながらボールを追う。奥村が相手を吹き飛ばす。やばい、ファールか。しかし笛は鳴らない。ボールはラインを割り、奥村が早くリスタートしようと構える。もう一人、この状況に素早く反応する人間がいた。#13佐藤真一。ハーフライン辺りで奥村からパスを受ける。日体の対応が遅れる。近くには幹生。日体のMFとDFは慌てて幹生の周りを固める。佐藤の前に途が開ける。20メートルを走り抜け、そのまま気持ちを込めて体重を乗せたシュート。日体の名ゴーリー松村繁文の右上を射抜き、ボールがネットに突き刺さる。後に、SATOブレイクと称えられる素晴らしいゴールだった。残り10数秒が過ぎ、試合終了を告げる笛が鳴る。スタンドからグランドへと大勢がなだれ込み、みなで喜びを分かち合う。歓喜の瞬間だ。このシーンはビデオに残っている。幹生のもとに、小沢さん、園田、大岡が最高の笑顔で駆け寄っていく。他方、僕にはというと、池さんが駆けつけ、後ろから飛び蹴りを喰らわしてくださっていた。愛を感じる。

 ところで、僕は主将をやらせてもらっていた。名誉なことに「ばか主将」と陰ながら、いや、大っぴらに呼ばれていたものだ。僕はこの称号に誇りを持っていた。主将になったばかりの頃、僕は「俺がこのチームを引っ張ってやる」と大いに気負っていた。もう肩に力入りすぎ。そんな2月のある日。例年催される東大ラクロス部OB・OG総会でのこと。司会を務めていたのは久山さん。久山さんは僕より5つも期が上で、それまであまり面識はなかったのだが、うどさんや中河さんから話は聞いていた。「久山っていうとてもお馬鹿な人間がいるんだ」と。なるほど、たしかに。その日久山さんは、お馬鹿な空気たっぷりに、あっはっはと笑っていた。ただ、2人はいつも久山さんについて話すとき、こう付け加えられていた。「久山は馬鹿だ。でもだからこそ、個性派ぞろいの俺たちも一つになれたんだ」と。総会後、久山さんは僕に、「お前馬鹿なんだってな。ばか主将の後継者として期待しているよ」と声をかけてくださった。久山さんに出会い、すうっと肩の力が抜けたことを覚えている。いつしか僕も「ばか主将」と呼ばれるようになり、そのたび幸せを感じていた。

 同期に恵まれたことは間違いない。同じく4年生の時の話。僕らは開幕戦で慶應に敗れていた。プレーオフに行くにはもう負けられない。そんなリーグブロック予選の成蹊戦。立ち上がり、なかなか点を奪えず、2対4とリードを許したままハーフを迎える。東大は第3QからゾーンDFを組むことによって、流れを変えようとする。これが効を奏す。直ちにポゼッションを奪うことはできず、長いDFが続く。しかし、確実に相手は攻めあぐねていた。ここを耐え切ればきっと流れがくる。それを予感させるDF陣の粘りだった。もう5分が過ぎたころ、ついに相手のミスからポゼッションを得る。アウトオブバウンズとなったとき、「今が勝負際だ。ここを取れば、きっと流れがくる」と直感した。その瞬間、4年生の各メンバーと目が合った。ここが勝負だと、互いにアイコンタクトを交わしていく。そう。みなの思いが一つになった瞬間だ。言いようのない興奮、震え。次のOFで東大は得点し、続いて同点、逆転ゴールを挙げる。僕はこの試合を通じて、「ここを守れば流れがくる」という瞬間があることを学んだ。そして以後、思いを共有する瞬間を重ねていくことで、チームメイトとの間に深いきずなができていった。

 最後の試合となった全日本選手権1回戦、対ナニワラクロスクラブも思い出深い。当時2年生の林はエキストラで精度の高いシュートを、北見は素晴らしいランニングシュートを決め、それらをゴール裏から見ていた僕は彼らのポテンシャルに心から感心したものだ。泉なんかは、GBを拾うや否や20メートルも独走し、幹生にズバリとアシストを決めていた。走り出した瞬間のギアチェンジがすごかった。しかし、結果は9対11で敗戦。これをもってBlue Bullets 2002は解散。試合後の幹生の涙が印象深かった。

そんなこんなで僕は現役としての4年間を終えた。何もせず、何も考えず、ただぼんやりと2日間を過ごし、その翌日から人生の第2Qを始めることにした。以来、ラクロス部での興奮に比すべき、あるいはそれ以上のものが得られるよう、次のフィールドで頑張っている。高田さんによく言われていたように、小っちゃい人間であることは変わらない。幹生と善樹と出かけた卒業旅行では、2人にいじられ続けた結果、不覚にも、ぶち切れてしまうという失態をやらかした。そういえば、藤崎さん、善樹とともに1年コーチをやらせてもらっていたときのこと。全力でのパスキャッチをメニューに取り入れていた。当然見本が必要になる。僕は飯塚を相手に指名し、みんなの前でパスキャッチをすることにした。彼は当時1年生ながら、手首をしなやかに使って、スナップの効いた伸びのある球を投げてくる。やばい、こいつの方がうまい・・。威厳をケアしようと躍起になる。そこで事件が起きた。力みまくった僕の左手から放たれたボールは、スライダー回転のかかった低い弾道で、飯塚君の左太ももへと直撃した。悶絶する飯塚君の姿が今でも目に焼きついている。我ながら、何とも小さい。話がそれてしまった。卒業してからも、ラクロス部の後輩たちからは学ぶこと大だ。何より彼らの面構えがいい。負けないように漲っていこうと、いつも刺激を受けている。

1999年の春。田舎から上京したばかりの僕は、武木田とともに、ふらりとラクロス部の練習に立ち寄った。ホッケー場に足を踏み入れた瞬間、爽やかな熱気を肌で感じた。自分もいつか先輩のようになりたいと憧れ、即座に入部を決めた。先輩、同期、後輩たち。東大ラクロス部で素晴らしい仲間に出会うことができ、本当によかった。ニューヨークのヤンキー・スタジアム。クラブハウスからグランドへと至る通路には、ジョー・ディマジオの言葉を刻んだプレートが飾られているらしい。

I want to thank the God for making me a Yankee.

僕も、東大ラクロス部の一員であることを心から誇りに思う。



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